朝日新聞 購読キャンペーン

朝日新聞購読キャンペーン

朝日新聞の購読申込ページ  「大川小、忘れないため語る 妹奪われた18歳 震災7年」

朝日新聞を公式サイトから購読申込する場合の注意事項

 

朝刊のみご希望のお客様は「配達への要望」欄に朝刊のみとご記入ください

 

申込ページでは朝夕刊セットの値段しか記載がございませんが

朝刊のみでも申込可能です。

 

ただし朝夕刊セット地域では朝刊のみ月極め料金が販売店によって異なるので

販売店があいさつに来た時などご確認ください。

カタログギフトプレゼントキャンペーンで申込たい方 下記↓↓クリック

 

 

 

 

朝日新聞の朝刊紙面より「生き残った児童で唯一、語り続ける

f:id:vyh04236:20180212081728j:plain

 

 東日本大震災から間もなく7年。津波で児童74人、教職員10人が犠牲になった宮城県石巻市大川小学校が今春、閉校する。津波に流され、生き残った4人の児童の一人で、高校3年の只野哲也さん(18)が故郷や家族への思いを語った。

 毎年3月が近づくと、ぴりっとした寒さやちらつく雪が胸を締めつける。「あんときも、こんな寒さだったっけ」。7年前のあの日から、1年の始まりは1月1日ではなく、3月11日に変わった。

 大川小から歩いて15分ほどの自宅で祖父母と両親、妹の6人で暮らしていた。5年だった只野さんはいつものように、教室で帰りのあいさつのために立ち上がると、船の上に放り出されたような揺れに襲われた。

 先生の指示で近くの橋のたもとへ避難を始めた。すると、目の前に見えていた民家が土煙をあげて崩れるのが見えた。「あ、やばい」。すぐに元の道を引き返した。後ろからゴーッという地鳴りが迫ってくる。体の奥まで震動が伝わり、周りの叫び声も、自分の足音も、何も聞こえなくなった。突きあたりの裏山を無我夢中で登った。突然、押しつぶされるような重さが背中にのしかかり、そこで意識が途切れた。どのくらい気を失っていたのかわからない。山腹に埋もれていたところを救助された。

 学校も自宅も、水の底に沈んだ。津波は、漁師だった祖父の弘さん(当時67)、母のしろえさん(同41)、二つ年下の妹未捺(みな)さん(同9)を奪っていった。「どうして逃げる時、無理やりでも妹の手を引っ張らなかったんだろう」と悔いる。地震を心配し、しろえさんは学校に迎えに来た。只野さんが自分のヘルメットを渡すと「いいからかぶっていなさい」と押し戻された。「ヘルメットがなかったら俺も危なかった。お母さんのおかげです」。友達の葬式に出るたび、泣き崩れる家族を見て、「俺よりも、あの子が助かれば良かったのに」と思った。

 

大川の町は、人が住めない場所になった。父の英昭さん(46)、祖母のアキ子さん(71)と市の中心部に引っ越すと、春は桜が咲き、冬は土手に積もる雪の上でそりをして遊んだ大川の四季が恋しくなった。

 夏には家族でバーベキューをした。祖父が捕ったウナギを焼くと、最高においしかった。3月11日は母の誕生日で、妹と2人で毎年、お祝いの会を計画していたのに。「なにげない日常だけど、ありがたいものだったんだ」

 小学1年の時から習っていた柔道に打ち込み、高校では柔道部の主将も務めた。体重は95キロになり、声変わりもしていなかった「てっちゃん」の表情は、大人びた雰囲気に変わっていった。

 津波から生き残った児童で唯一、当時のことをシンポジウムやテレビで語り続けてきた。旧校舎の保存をめぐる議論では中学2年の秋、真っ先に「千年後まで残したい」と保存を訴えた。「こういうことを二度と起こしてほしくないから。残して、伝えていかなきゃならない」

つらい記憶も思い出も

 昨年夏に部活を引退すると、亡くした家族や友達を考えることも増えたが、記憶が薄れていっているようにも感じる。母や妹の声を最近思い出せない。「仕方ないけど、そういうのがいやだなって」。昨年12月、大川小の教訓を語り継ぐため、遺族が旧校舎の前で開くガイドの会に、初めて語り部として立った。「これからの災害で犠牲者が出ないでほしいから。しゃべることで自分自身も忘れなくなるし」。訪れた約50人の前で、あのときの体験を語った。

 新年度から県内の大学で機械工学を学ぶ。柔道は続ける。語り部の活動にも関わっていくつもりだ。大川小の閉校式は今月24日で、卒業生として出席する。旧校舎は震災遺構として保存が決まっている。

 ただ、旧校舎が思い出させてくれるのは、震災のつらい記憶だけではないという。中庭で一輪車に乗る妹の姿、放課後のサッカー、春のお花見、地域総出の運動会――。子どもたちはみんなスポーツ万能なのが大川の自慢だった。只野さんはそう教えてくれた。

 朝日新聞より引用