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朝日新聞の購読申込ページ 「野村克也さん、野球部存続のため生徒会長 先生も口説く」

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 朝日新聞の朝刊紙面より「100回大会に挑む球児にメッセージ

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 高校野球京都大会は7日に開幕し、75校が挑む。プロ野球の南海で三冠王に輝き、ヤクルト、阪神楽天で監督を務めた野球評論家の野村克也さん(83)は60年以上前、府立峰山高校(京丹後市)で京都大会に出場した。高校時代を語ってもらい、今夏の100回大会に挑む球児へのメッセージを聞いた。

 ――高校野球の思い出は。

 お袋に内緒で野球部に入ったから、野球をやること自体がお袋との戦いよ。

 そもそも高校に行けるかどうかも危なかった。父親を戦争で亡くし、母子家庭だった。中学3年のとき、お袋から「高校に行かずに働きに出てくれ」と言われた。でも、3歳上の兄貴が「大学に行くのをあきらめて働くから、こいつを高校に入れてやってくれ」と言ってくれてね。それで高校に行けた。

 お袋は高校で野球することを許さなかったが、兄貴が背中を押してくれた。一緒に畑仕事をしていても、「やっといたるから試合に行ってこい」と。本当はお袋も知っていて、やらせてくれたんだと思う。

 ――どんなチームでしたか。

 おれはキャッチャーで4番で主将。部員は12、13人だったと思う。成績がよくない部員が多かった。練習でも狭いグラウンドを独占し、打球で窓ガラスをよく割っていた。なんもいいことがないから、廃部にしようという話もあったと聞いている。

 プロになる夢があるのに、部を潰されたら大変。まず生活指導部長の先生を攻略し、味方につける作戦を考えた。その先生に近づくために、生徒会長に立候補。「投票しなかったらどうなるかわかるよな」。なかば脅すように票集めし、かろうじて当選した。

 その先生の小学生の息子に頼み込み、先生を試合に連れて来てもらった。先生は大勢の観客で盛り上がる様子に感動しちゃって。それから野球部擁護派になってくれ、部長にもなってくれた。そんなわけで部の存続が決まったんだ。

 高校最後の試合は、第35回大会(1953年)の3回戦、0―6で8回日没コールド負けだった。負けたことなんて小さな話だった。夢はプロ野球選手になることだったから。

 ――プロ行きはどうやって決まったのですか。

 新聞配達をしていたんだけれど、3年のとき「南海ホークス新人募集」の新聞広告を見つけた。部長に受けたいと言うと、「行ってこい。お前ならひょっとするぞ」と。大阪までの旅費を借り、入団テストを受けに行った。

 300人以上が来ていたんじゃないかな。だめかなと思ったが、旅費も貸してもらっていたし、不合格でもいいから思い切りやって帰ろうと開き直った。悔いのないようにね。その結果、テスト生で入団できた。

 ――100回大会に挑む球児にメッセージを。

 言いたいことはたった一つよ。夢をもて。その夢に向かって走れ。人生それしかないわな。幸せな人生を送るか、不幸な人生にしてしまうかは、すべて本人の考えしだいや。

朝日新聞より引用