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朝日新聞の朝刊紙面より「知事選で投じた有権者のむなしさ

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 沖縄の負担軽減のために始まった米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の移設計画。20年以上の迷走の末にたどり着いたのは、名護市辺野古の海の埋め立て強行だった。

14日午前11時半すぎ、沖縄県北谷(ちゃたん)町の平良(たいら)亜紗美さん(32)はスマートフォンのニュースで、辺野古沿岸に土砂が投入されたと知った。

 なりふり構わず辺野古移設を進める政権に恐ろしさを感じた。9月の知事選では一票を投じた「辺野古反対」の玉城デニー氏が大勝した。それなのに……。むなしさがこみ上げた。

 「日本の発展や防衛のため、沖縄はずっと『ゴミ箱』なんでしょうか」

 辺野古がある東海岸から離れた名護市の市街地で、高校卒業まで育った。辺野古に基地があることや、そこが普天間の移設候補であることは知らなかった。

 2004年、宜野湾市の沖縄国際大に進学。その夏、名護に帰省中に、大学構内に米軍ヘリが墜落した。テレビで黒い煙の上がる現場の映像を見て、「これが自分の学校か」と信じられなかった。

 ログイン前の続き事故を機に、大学で基地問題を研究する先生に出会った。大学の近くにある米国人と沖縄の人の間に生まれた子「アメラジアン」のための学校でボランティアもした。日本語が十分に使えない、見た目でいじめられる――。米軍が70年以上も駐留し、社会とかかわり合ってきた沖縄の複雑な現実を目の当たりにした。

 県民の4人に1人が亡くなった沖縄戦。日本が主権を回復する一方で、米軍統治下に切り離された戦後の沖縄。「沖縄はいつも日本に利用され、都合の悪いものは押しつけられてきた」。その延長に、基地問題があり、いまの辺野古の問題があると思う。

 新卒で勤めた旅行会社を辞めて独立し、6年目。県の事業で海外に派遣される高校生のための研修プログラムを作成したり、沖縄を訪れる修学旅行生に添乗したりする仕事に携わる。

 修学旅行のバスで、ふるさとの名護市を通ることも多い。今月上旬も、バスの中から反対運動の人たちを見た奈良県の高校の引率教員に「沖縄の人は米軍基地に賛成ですか、反対ですか」と聞かれた。

 ひとくくりに語ることのできない沖縄の入り組んだ事情を、県外の人に伝えるのは容易ではない。「140万県民の総意はうまく言えませんが、私は反対です」と答えた。

 工事は今後も進むだろう。でも、関心を失ってしまえば、沖縄の声は小さくなるし、本土にも届かなくなる気がする。だから、自分自身の考えは、しっかり持ち続けていきたい。

 「我がこととして考えてくれる人が広がるよう、地道に伝えていきたい」。いつか変化が起きると信じている。

集落の現状「悲しい」 辺野古出身の島袋茂照さん

 「辺野古に基地被害が孫の代まで残る。この苦しみがいつまで続くのか」。名護市辺野古出身で今も暮らす医療法人理事長の島袋茂照さん(72)は嘆いた。

 1998年から2期8年名護市長を務めた故・岸本建男(たてお)さんの選挙を、陣営の事務局長として支えた。99年、岸本さんは移設を容認するにあたり、「15年の使用期限」「軍民共用」など厳しい7条件を付けた。

 だが、生活環境への影響が少ない辺野古の沖合2キロに造るはずだった案は、日米交渉の中で沿岸を埋め立てる計画に変わり、協議は行き詰まった。

 当時、島袋さんの職場を、時々岸本さんが訪ねてきた。湯のみに酒を注いで一気に飲み干しては、悩みを吐き出した。「市民と政府の板挟みでつらそうだった。建男の表情が忘れられない」。岸本さんは06年2月に引退。3月、肝細胞がんで、62歳で亡くなった。

 その2カ月後、政府は、「軍民共用」などの条件に触れた99年の閣議決定を廃止した。このころから、島袋さんは「移設反対」の思いを強くした。

 一方で、辺野古では次第に、表立って「反対」を口にする人は少なくなった。補償を求めることや、工事関連の仕事を請け負うことなど、「カネ」の話題が増えた。市議会議長を務めた弟とも意見が割れ、今も兄弟で基地の話はしない。

 島袋さんは昨年3月、4年間務めた地区の役員を辞めた。ふるさとの集落に、腹を割って話し合える空気はなくなったと思ったからだ。「あきらめるつもりはないが、あらがう方法もない。それが悲しい」(伊藤宏樹

「危ない普天間、どうするんですか」元名護市長・比嘉鉄也さん

 名護市の比嘉鉄也さん(91)は、政府が土砂投入に踏み切ったことを「長かった」と受け止めた。「22年、行ったり来たり。歴代の内閣がしっかりやっていれば、もう終わっていたんじゃないか」

 米軍普天間飛行場の移設先に辺野古が浮上したときの名護市長。賛否を問う97年の市民投票では反対が過半数を占めたが、逆に移設の受け入れを表明し、辞任した。「投票結果に従って『反対』したら、この問題は長引く」。熟慮の上の決断だったと振り返る。

 「反対」の世論はなお根強く、計画をめぐって市民間の対立は続く。期待した地域振興もふるわず、沖縄の人口が増え続ける中、沖縄本島北部の人口は20年以上経ってもほぼ横ばいだ。

 でも、今も自らの判断は間違っていなかったと考えている。「『辺野古には基地を造らせない』という人もいる。じゃあ、危ない普天間の基地は、どうするんですか」

朝日新聞より引用