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朝日新聞の購読申込ページ 「攻撃成功の報に歓声、残った「なぜ」 真珠湾攻撃77年」

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朝日新聞の朝刊紙面より「軍部を恨む

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 太平洋戦争の幕開けとなったハワイ・真珠湾攻撃から8日で77年。戦火をかいくぐった兵士たちは、多くの犠牲を強いた戦争に怒りと疑問を抱き、平和への思いを強くしている。

 「ただ今より重大発表をする。12月8日、ハワイ・真珠湾を攻撃する」

 太平洋を航行する航空母艦「加賀」の艦長が声を上げた。甲板に集まった乗組員の中に、当時21歳の長沼元さん(98)=福岡市南区=もいた。「米国と戦争が始まる」。興奮が艦内を包んだ。

 ログイン前の続き加賀など6隻の空母を主力とする海軍機動部隊は1941年11月末に北海道・択捉島を出発し、真珠湾をめざしていた。12月8日(現地時間7日)未明、長沼さんは攻撃機の整備作業に追われ、飛び立つ機影に手を振って見送った。

 しばらくして、攻撃成功の一報が届いた。ウワーッという歓声。帰艦した搭乗員たちと手柄話に花を咲かせた。だが、翌年のミッドウェー海戦で日本は大敗。加賀も激しい爆撃を受け、爆弾が誘爆して沈没した。戦友が命を落とし、甲板にいた長沼さんも両足などをやけどした。

 戦後は農家や郷土史家として歩んだ。後遺症で足を曲げられず、畑仕事では苦労を重ねた。戦後、報道などで戦時の状況を知るにつれ、「食料や資源が少なかったのに、なぜ戦争を始めたのか」と疑問を抱くようになった。2006年には戦争体験を後世に伝えようと、手記を自費出版した。

 長崎県佐世保市海軍墓地で営まれるミッドウェー海戦の慰霊祭にはほぼ毎年参列し、亡くなった仲間を慰霊している。ただ、元乗組員で参列するのは長沼さんだけになった。

 分断と対立が世界を覆う今、長沼さんは思う。「相手を思いやれば、人と人との対立、戦争はなくなるのではないか。平和をどのようにつくっていくか、みんなで考えてほしい」(伊藤繭莉)

 日本軍は1941年12月8日、マレー半島東海岸のコタバルへも上陸した。

 福岡県久留米市出身の元日本兵、本村喜一さん(98)=東京都八王子市=は荒れ狂う海から、陸を目指した。敵の陣地から弾が飛んで来る。銃を背負い、鉄帽をかぶって海からはい上がり、海岸を匍匐(ほふく)前進。すぐ隣にいた中隊長は首を撃たれて死亡した。

 44年3月に始まったビルマ(現ミャンマー)でのインパール作戦では、インド国境近くまで侵攻した。物量に勝る英印軍と向き合い、崖に張り付いて爆撃をしのいだ。補給はなく、野草を口に入れた。「もうこの戦争はダメだな」。仲間と言い合った。6月には後退を開始。体はシラミだらけで、マラリアや腸チフスに苦しんだ。

 忘れられない光景がある。ぬかるんだ小さな山を登っていくと、「水をくれ~」と訴える声があちこちから聞こえた。腐臭が漂い、半分腐った遺体が散らばっていた。目や鼻、口に大量のウジがうごめいていた。木にもたれたまま白骨化した遺体もあった。

 本村さんもまもなく動けなくなったが、野戦病院に運ばれて、何とか命をつないだ。47年に復員し、戦後は商社に勤めた。ビルマ戦で亡くなった日本兵を慰霊する人の新聞記事を昨年読んで心を打たれ、体験を語ろうと思った。

 「軍部を恨む。(インパール作戦を遂行した)将軍たちはみんな責任も取らずにその後、出世した。多くの兵士を殺しておいてそんなバカなことがあるか。戦争はいかんですよ」

真珠湾攻撃》 1941年12月8日、旧日本海軍の空母6隻、航空機約350機などからなる機動部隊がハワイ・真珠湾米軍基地を奇襲攻撃。米軍艦6隻が沈没し、約2400人が亡くなった。日本側の被害は未帰還の航空機29機、死者64人など。宣戦布告が遅れたため、米国では今も「だまし討ち」との批判がある。

朝日新聞より引用