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朝日新聞の購読申込ページ  「秘の中の秘、新元号を追え 」

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朝日新聞の朝刊紙面より「毎日「幻のスクープ」の真相

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1989年1月7日午後2時ごろ、首相官邸記者クラブ毎日新聞政治部の男性記者が、仮野(かの)忠男・官邸キャップに1枚のメモを手渡した。政府関係者から極秘入手したそれには、手書きで「平成」とあった。

 

 

「取れました! 平和の『平』に、成田の『成』。ヘイセイです」

 仮野氏は東京・竹橋の本社で待つ橋本達明デスク(後の主筆)に電話した。

 新元号をスクープしようと、報道各社は熾烈(しれつ)な競争を繰り返してきた。「大正」は朝日新聞の新人記者だった緒方竹虎(故人)が特報。昭和改元では毎日の前身、東京日日新聞が報じた「光文」が誤報となり、社長が辞意を表明する事態となった。平成改元で、毎日は「光文事件の雪辱を果たす」と誓っていた。

 新元号「平成」スクープ――。89年2月1日付の毎日の社内報には大見出しが躍る。だが新聞協会賞は申請されず、読売新聞は「平成改元」(行研)で「スクープもなく、新元号『平成』は決まった」とした。

 真相はどこにあったのか。当時毎日で元号取材に携わった複数の関係者が、経緯を明かした。

 その日、元号特別取材班のメンバーだった榊(さかき)直樹記者(現・愛知東邦大学長)は橋本デスクと本社にいた。仮野キャップの電話を受け、榊氏は予定稿に「平成」の2文字を加え準備を整えた。ところが、編集局内ではスクープを掲載するかどうかで激論が起きた。

 「光文事件の二の舞いになったらどうするんだ!」。そんな声が上がった。橋本デスクはダブルチェックを求めたが、仮野キャップは「平成が漏れていることが政府に伝われば、差し替えられる」と渋った。

 時間は刻一刻と過ぎていく。「この間、スクープが入った夕刊を刷る輪転機は回っていなかった」と仮野氏と榊氏は証言する。

 午後2時半過ぎ、閣議を終えた閣僚の一人から裏がとれたが、同36分には小渕恵三官房長官(故人)が新元号を発表した。

 その瞬間、情報の正しさが裏づけられ、編集局内では拍手もわいたという。しかし、榊氏は「1部でも事前に刷っておけば、スクープの証明になったのだが……」と悔しさを隠さない。仮野氏も発表前に「本社周辺だけでも号外を配れないか」と幹部にかけ合ったが、かなわなかった。

 取材源を守るため、新元号を入手した記者については、社史「『毎日』の3世紀」にも「A」としかない。根気強く取材を重ね、政府側の厚いガードを突き破る「穴」を見つけた、と記されている。

 「元号が『秘の中の秘』である以上、政府の『穴』をつくのがメディアの使命だ。政府との緊張関係を保つためにも、決して取材を怠ってはならない」。橋本氏はそう信じている。

元号を取材する意義

 朝日新聞政治部では87年秋から、植木千可子記者(現・早大教授)ら2人が元号担当となった。中国の古書「四書五経」を引きながら、およそ100の私案を作成。その中には「平成」も含まれていた。

 当時、小渕官房長官の担当記者だった星浩氏(現・ニュースキャスター)は小渕氏が住む東京・王子の私邸を訪ね、植木記者らが作ったリストを2度見せている。その時ははぐらかされたが、小渕氏は後に「あの時は心臓が止まるかと思った」と打ち明けたという。

 植木氏は宇野精一・東大名誉教授(故人)が元号考案者の一人とみて取材を重ね、ともに囲碁を打ったり出張先に同行したりした。89年1月7日は宇野氏の自宅で、新元号の発表を2人でラジオで聞いた。小渕氏が「ヘイセイ」と発表した瞬間、宇野氏は「どんな字かな? 平らに正しいだろうな」。宇野氏の案は有識者懇談会に示された3案の一つ、「正化(せいか)」だった。

 現憲法下で初めてとなる改元で、元号制定プロセスの一端を明らかにしたい。植木氏はそんな思いで取材に当たったという。

 「国の『秘』や報道の『タブー』をできるだけ少なくすることが、国民の知る権利の拡大につながる。元号を取材する意義は、約30年前も今も同じではないでしょうか」

朝日新聞より引用